特集:欧州で先行するSDGs達成に寄与する政策と経営EUの政策概要と法整備の動向(第2回)今後注目すべき労働者の賃金や企業の持続可能性に関するEU法案
2021年12月6日
SDGsの主流化を目指す欧州委員会は、欧州委のあらゆる提案、政策、戦略にSDGsの観点に組み込むとしている。第1回で解説した通り、欧州委は、2050年までの温室効果ガス排出実質ゼロを目指す「欧州グリーン・ディール」を、SDGsの実現に向けて特に重要な政策と位置付け、政策面だけでなく、予算面でもこれを後押ししている。また、EU加盟国の財政政策の監視と調整の枠組みである「ヨーロピアン・セメスター」に環境や社会面における持続可能性の観点を組み込むことで、欧州委だけでなく、加盟国によるSDGsの実現も目指している。欧州委は、この他にもSDGsに関連する数多くの政策を打ち出しており、その中にはEU域内で事業展開する日系企業が影響を受ける可能性のある政策も少なくない。欧州委のフォン・デア・ライエン委員長は、2019年12月の就任前に発表した政治的ガイドライン(1.19MB)において、「欧州社会権の柱」や男女平等のさらなる推進を明言しており、その一環として欧州委は、十分な水準の最低賃金に関する枠組みを規定する「最低賃金指令案」や、男女間の賃金格差を是正するための「賃金透明化指令案」を提案している。また、欧州委は、企業活動においても持続可能性の視点を組み込むことを求めており、非財務情報開示指令を改正し、企業活動における気候変動の影響などの持続可能性に関する情報の開示を求める「企業持続可能性開示指令案」を提案している。さらに、短期的な財務実績だけでなく、気候変動・環境や社会権・人権などの長期的な、持続可能な開発の要素を企業ガバナンスの枠組みに導入することを目指す、「持続可能な企業統治」に関する法案を策定中である。本稿では、欧州委がSDGsの実現に貢献するとして、2020年末から2021年にかけて提案した、あるいは今後、提案を予定している、これらの4法案の概要を解説する(表参照)。
EU法案 | 欧州委(フォン・デア・ライエン体制)の優先課題 | 特に該当するSDGs | その他該当するSDGs |
---|---|---|---|
最低賃金指令案 | 人々のための経済 | ||
賃金透明化指令案 | 欧州民主主義の推進 | ||
企業持続可能性開示指令案 | 欧州グリーン・ディール | ||
持続可能な企業統治に関する法案 | 人々のための経済 | 未発表 | 未発表 |
1. 貧困をなくす
2. 飢餓をゼロに
3. すべての人に健康と福祉を
4. 質の高い教育をみんなに
5. ジェンダー平等を実現しよう
6. 安全な水とトイレを世界中に
7. エネルギーをみんなに そしてクリーンに
8. 働きがいも経済成長も
9. 産業と技術革新の基盤をつくろう
10. 人や国の不平等をなくそう
11. 住み続けられるまちづくりを
12. つくる責任つかう責任
13. 気候変動に具体的な対策を
14. 海の豊かさを守ろう
15. 陸の豊かさも守ろう
16. 平和と公正をすべての人に
17. パートナーシップで目標を達成しよう
出所:欧州委員会資料を基にジェトロ作成
EUにおける一般的な立法手続きは、欧州委が共同立法機関であるEU理事会(閣僚理事会)と欧州議会に法案を提案し、EU理事会と欧州議会(議会内の委員会での採択を経て、本会議で採択)がそれぞれ法案に対する立場を決定した上で、両者の立場が一致するか、一致しない場合に欧州委を含め両機関が協議し、合意した場合に成立するというものであり、これらの4法案も同様である。これらの4法案はすべて、前述の3機関が合意した2021年の立法上の優先課題に関する共同宣言(300.57KB)に含まれていることから、実質的な進展を確保すべく、立法手続きが優先的に進められている。しかし、2021年11月時点では、欧州委による提案、策定段階、あるいはEU理事会と欧州議会の審議段階であり、成立のめどは立っていない。
最低賃金指令案‐労使交渉の促進や法定最低賃金の設定基準に関する枠組みの提供を目指す
欧州委は2020年10月、「EUにおける十分な水準の最低賃金に関する指令案(最低賃金指令案)」(2020年11月2日付ビジネス短信参照)を提案した。この法案は、EU域内の労働者に占める貧困層の割合が近年上昇傾向にあることから、各加盟国の最低賃金を十分な水準へと底上げを目指すものである。まず、労使間の団体交渉の組織率が高い加盟国では低賃金労働者の割合が低く、最低賃金の水準も高いことから、組織率が70%以下の加盟国に対して、労使双方の団体など社会的パートナーとの協議の上で法律により、または社会的パートナーとの合意により、団体交渉を実施しやすくする枠組みを設定することを加盟国に求める。また、団体交渉を推進する行動計画の策定も求める。さらに、法定最低賃金を設定している加盟国に対しては、その設定基準に含めるべき客観的な指標を規定する。欧州委は、この法案はあくまでも最低賃金に関する枠組みを提供するものであり、加盟国の最低賃金を直接的に設定するものではないとしている。
EU理事会は、この法案の審議をすでに始めているが、複数の加盟国が当初よりこの法案に反対している。その理由として挙げているのが、この法案に対する適切な法的根拠の欠如である。EUは、基本条約の規定により付与された権限内においてのみ、政策を実施することができる。今回の法案では、欧州委は労働条件に関して加盟国を支援、補完することができるとするEU機能条約第153条(1)(b)と(2)を法的根拠としている。これに対し、反対派の加盟国は、第153条(5)において、同条が「賃金」に関しては適用されないと規定していることから、同条を法的根拠にすることはできないと主張している。審議の前提となる法的根拠において意見がまとまらないことから、2020年下半期のEU議長国であったドイツは、EU理事会法務局に意見を求めていた。2021年3月に発表された意見では、法案の射程などにつき若干の修正を提案したものの、EU機能条約第153条(1)(b)と(2)を基本的に有効な法的根拠と判断した。その後、2021年上半期のEU議長国のポルトガルが、合意形成に向けた交渉を続けたものの、採択に必要な特定多数決の形成には至っていないとして、この法案の審議を2021年下半期に持ち越すと結論づけた。
欧州議会においては、2020年11月から雇用・社会問題委員会での審議が始まっている。2021年4月には雇用・社会問題委員会は、欧州委の提案よりも最低賃金の引き上げ強化を図る修正案の草案(241.68KB)を提出している。この草案によれば、法定最低賃金の設定権限は加盟国にあることを強調しつつ、労働者の組織率が90%以下の加盟国に対して、団体交渉を推進する適切な環境を確保し、さらに組織率を少なくとも90%に引き上げるために、明確なスケジュールと具体的な対策を含む行動計画を策定することを求めている。また、総賃金の中央値の60%以下あるいは総平均賃金の50%以下の最低賃金を、不十分な水準と明確に規定している。雇用・社会問題委員会は11月、この草案を基に、加盟国に対して行動計画の策定を求める際の基準となる労働者の組織率を80%以下に引き下げ、最低賃金に関する前述の数値水準を目安とするなどの修正を加えた上で、委員会の修正案 を賛成多数で採択した。その後、欧州議会の本会議も11月、同修正案を承認した。欧州議会は、EU理事会が立場を決定次第、協議を開始するとしている。
賃金透明化指令案‐賃金の透明性の強化による男女間の賃金格差の是正を図る
欧州委は2021年3月、「賃金の透明化と執行メカニズムを通じた男女間の同一労働同一賃金原則の適用強化指令案(賃金透明化指令案)」(2021年3月8日付ビジネス短信参照)を提案した。EUでは、2006年の「雇用及び職業における男女の機会均等及び均等待遇の原則の実施に関する指令2006/54」の施行以降、同一労働における男女間の賃金の平等を雇用主に対して義務付けているが、EU全体での男女間の賃金格差はいまだに14.1%に上る。そこでこの法案は、その背景にある賃金の透明性の欠如を改善することで、雇用主に賃金体系を改定するインセンティブを与えるとともに、労働者が権利行使をしやすくする環境の整備を目指すものだ。労働者に対して自身の賃金水準のほかに、同一労働をしている労働者の男女別の平均賃金水準を知る権利を与え、250人以上を雇用する雇用主には、男女間の賃金格差、賃金水準ごとの男女比率などを自社のウェブサイトなどで毎年公表することを義務付ける。また、労働者の司法アクセスの改善策なども含まれる。
EU理事会は、この法案の審議を開始しており、ほとんどの加盟国がこの法案を原則として歓迎しているが、その詳細に関しては、多くの加盟国が議論の余地があるとしている。特に、同一賃金に対する権利の不明瞭さ、EUが加盟国の権限を侵害する懸念、中小企業への経済的・実務的な影響などを問題視している。2021年6月時点で、賃金の透明化の規定を含む法案の第1章と第2章について、実務者レベルでの審議が完了しており、救済と執行に関する第3章などの残りの規定についても審議が引き続き行われている。さらに、実務者レベルの審議後に、EU理事会での立場の決定に向けて、政治的考慮を踏まえた審議が続く見通しである。
欧州議会に関しては、同一労働同一賃金はEUの基本的な原則の1つであるとして、従来から賃金格差の問題に積極的に取り組んでいる。2020年1月には、男女間の賃金格差の是正に向けた賃金の透明性に関する拘束力を持った措置を含む法案の提案を、欧州委に求める決議を採択している。欧州委による法案の提案後は、2021年6月に女性の権利・ジェンダー平等と雇用・社会問題の各委員会が合同で担当することを決定した。合同委員会による審議はすでに開始しており、9月には草案(348.88KB)を公表している。この草案は、欧州委の発表した指令案の大枠に同意する一方で、労働者の労働組合を通じた賃金情報の請求権や、取得した賃金情報の労働組合との共有といった幅広い活用を認めるなど、労働者側の権利をより強化する内容になっている。また、大企業に比べて中小企業における女性労働者の比率が高いことから、賃金格差などの公表義務の対象を、雇用者数250人以上の雇用主から、10人以上の雇用主へと大幅に拡大させるなど、雇用者側の義務も強化している。合同委員会は、早ければ12月にもこの草案を基に投票する予定である。
企業持続可能性開示指令案‐非財務情報開示指令を改正し、対象事業者と開示内容を拡大へ
欧州委は2021年4月23日、「特定大規模事業者およびグループによる非財務および多様性に関する情報の開示指令2013/45(非財務情報開示指令)」(2014年5月調査レポート参照)を改正する「企業持続可能性開示指令案」(2021年4月23日付ビジネス短信参照)を提案した。非財務情報開示指令により、上場企業を中心とした非財務情報開示指令の対象となる事業者には、従来の年次報告書での財務情報に関する開示に加え、環境や社会的課題、ガバナンスなどの非財務情報の開示が義務付けられている。非財務情報開示指令の改正案となる企業持続可能性開示指令案は、開示対象となる事業者の拡大と開示内容の強化を目指すものである。背景には、近年の非財務情報のニーズに対する大きな高まりがある。非財務情報開示指令では、事業者は必ずしも市場が求める情報を開示しておらず、また開示している場合であっても、信頼性や他社との比較可能性の点において、難点があるとされている。欧州委は、2017年と2019年に開示に関する拘束力のない指針を公表しているが、事業者による開示内容の向上にはつながっていない。今回の改正案は、こうした課題に対処するものである。
企業持続可能性開示指令案の対象となる事業者は、非上場の企業を含むすべての大企業と、上場している中小企業(ただし、零細企業を除く)である。新たに開示が求められる内容は、持続可能性に関する課題がいかに事業に影響を与えるか、また、企業活動がいかに社会や環境に影響を与えるか、について理解するために必要な情報(持続可能性情報)である。具体的には、(1)ビジネスモデル、(2)持続可能性事項に関する目標とその進捗状況、(3)持続可能性事項に関する事業者の管理、経営、監督機関の役割、(4)持続可能性事項に関する対応方針、(5)持続可能性事項に関する、(i)実施済みデューディリジェンス、(ii)取引関係・サプライチェーンを含む事業者のバリューチェーンにおける主要な実際の、あるいは潜在的な悪影響、(iii)悪影響を防止、緩和、改善するための実施済みの施策、およびその結果、(6)持続可能性事項に関する主要なリスク、(7)前述(1)から(6)に関連する指標である。今回の改正指令案では、前述の開示内容においては、非財務情報開示指令で明記されている取引関係に加えて、バリューチェーンに関する情報を「必要に応じて」開示する必要がある。また、対象事業者は、前述の開示事項に関して、持続可能性開示基準に基づいて、開示することが求められる。ただし、この開示基準は今回の改正指令案には含まれておらず、今後、欧州財務報告諮問グループ(EFRAG)が草案を策定した上で、欧州委が委任法令として、2022年10月31日までに採択する予定である。中小企業に対しては、より簡略化した持続可能性開示基準を別途で設けるとしており、2023年10月31日までに採択する予定である。さらに、今回の改正案では、持続可能性情報の開示内容に関する監査要件が規定されている。これは、一般に監査の対象となる財務情報と同様に、持続可能性情報の開示内容についても、監査を通じて、信頼性や正確性の確保を目指すものである。ただし、欧州委は、企業側の負担や、持続可能性情報の監査における監査法人などの技術的な限界を考慮して、限定的な監査から導入するとしている。
欧州議会は、非財務情報開示に関連し、2018年5月の決議と2020年12月の決議を採択している。これら決議において、環境・社会・ガバナンスに関する義務的な開示基準や期限設定のある持続可能性目標を含めた枠組みを設定すること、開示対象となる事業を拡大すること(上場・非上場を問わずEU域内で設立された大企業、EU市場で事業を展開するこれに準ずる非EU企業、中小企業への適用を念頭にした持続可能性に深刻な影響を与えるリスクの高いセクターの選定)などを含め、欧州委に非財務情報開示指令の改正を求めている。2021年6月に法務委員会で、今回の改正案は審議が開始されており、こうした決議を踏まえた審議が予想される。EU理事会に関しては審議が開始されたばかりであり、進捗状況は明らかになっていない。現状では、具体的な採択時期の見通しは立っていないが、欧州委としては、2024年(2023年の会計年度分)からの適用開始を目指すとしている(ただし、対象となる中小企業に関しては、今回の改正案の大企業等への適用開始の3年後に適用を開始するとしている)。
持続可能な企業統治‐バリューチェーンにおける環境や人権に関するデューディリジェンス義務化を提案へ
フォン・デア・ライエン委員長は2020年9月16日、一般教書演説の意図表明文書において、「持続可能な企業統治」に関する法案を2021年に提案する意向であることを明らかにした。これに先立ち、2020年7月には、初期影響評価において、この法案の検討内容を明らかにしている。これによると、この法案は、経営陣、株主、従業員・顧客・取引先などを含む利害関係者や社会の長期的な利益の追求に向けて、持続可能性の視点を企業統治(コーポレートガバナンス)の枠組みに組み込むことを目的としている。利害関係者の利益、持続可能性リスク、依存性などを企業の戦略や決定に反映させるために、経営陣に対してインセンティブを与える枠組みとなる。背景にあるのは、持続可能性に関する経営陣の自主的な取り組みでは、短期的な財務業績に過度の焦点を当てる経営方針の現状を変えることは難しく、バリューチェーンにおける環境や人権などに関するリスクが事業戦略に十分に反映されることを期待することはできないとの認識だ。策定段階にあるこの法案は、複数の新たな法的義務の設定を検討している。具体的には、対象企業に対して、自身の企業活動だけでなくバリューチェーンにおいて、気候変動、環境、人権侵害などのリスクを特定・予防し、また緩和すること(デューディリジェンス義務)、企業の取締役などに対して、安全配慮義務の一環として、企業の長期的な持続可能性や、企業活動によって影響を受けるあらゆる利害関係者や社会の利益を考慮することを求めることなどが検討されている。こうした義務は、国連や経済協力開発機構(OECD)が開発した既存の指針を基にすることもあり得るとしている。欧州委はこの法案を、2021年12月中に提案する予定とみられる。なお、2021年7月には、欧州委は欧州対外行動庁(EEAS)と共同で、EU企業が事業活動とサプライチェーンの管理において強制労働に関与するリスクに対処するためのデューディリジェンス・ガイダンス文書(2021年7月15日付ビジネス短信参照)を発表した。これは、法的拘束力を持つものではないが、国連やOECDといった国際的な枠組みを踏まえた上で、企業がバリューチェーンにおける強制労働の根絶に取り組むために実践的アドバイスを提供するものである。
欧州議会は従来、国際的なサプライチェーンにおける環境や人権規範に関する企業責任を強化する法的枠組みの必要性を訴えている。2018年5月の決議においては、安全配慮義務を含む、包括的なデューディリジェンスの義務化法案の提案を欧州委に求めており、2021年3月には、企業のデューディリジェンスと説明責任に関する独自の指令案を圧倒的多数で採択している。この指令案は、EUの大企業、上場している中小企業、環境や人権に対するリスクが著しく高いセクターの中小企業、あるいはこれ準ずるEU域内で営業している非EU企業を対象とする。これらの対象企業に対して、企業活動およびビジネス関係における人権、環境、良い統治(グッドガバナンス)への実際のあるいは潜在的な悪影響に関するデューディリジェンスを義務化する。また、デューディリジェンス戦略の策定とその実施を求めるとともに、その策定や実施においては、関連する利害関係者との協議とその公表を求めている。欧州議会は今後、欧州委の持続可能な企業統治法案の提案後に、独自案を踏まえた審議を進めると予想される。なお、EU理事会による審議も欧州委の提案後に開始されると見られる。
- 執筆者紹介
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ジェトロ・ブリュッセル事務所
吉沼 啓介(よしぬま けいすけ) - 2020年、ジェトロ入構。