ドイツで審議進む人権デューディリジェンス法案の概要と動向
「サプライチェーンと人権」に関する主要国の政策と執行状況(6)
2021年6月11日
ドイツでは現在、「人権デューディリジェンス」に関する法案が作成され、議会で審議されている。本稿では、法案が作成されるまでの経緯や議会の審議状況、法案の概要を紹介し、既に自主的に自社サプライチェーン全体の人権デューディリジェンス実施に取り組んでいるドイツ企業の事例を紹介する。
デューディリジェンス法案作成の経緯
連邦政府は2016年、国連人権委員会「ビジネスと人権に関する指導原則」に基づき、「ビジネスと人権に関する国別行動計画」〔National Action Plan(697.56KB):NAP〕を策定して公表した。NAPでは、企業が負うべき人権に関する注意義務(デューディリジェンス)の中心的要素として、(1)人権尊重の原則の方針書決定、(2)人権に対する悪影響が事実上または可能性として存在する場合の調査手続き導入、(3)人権に対する悪影響の可能性を除去する措置とその効果の検証実施、(4)報告書作成、(5)苦情処理メカニズム導入の5点を定めた。また、2020年までに従業員数500人以上のドイツに拠点を置く企業の50%が自主的にデューディリジェンスを導入することを目標にした。この目標を達成できなかった場合には、連邦政府はデューディリジェンスの法制化も含めた検討を行うことも盛り込んだ。
2018年、キリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)と社会民主党(SPD)の連立協定(8.32MB)に「NAP2020の効果的かつ包括的なレビューにより、企業の自主的なコミットメントが十分ではないと結論付けられた場合、国内の立法措置を講じるとともに、EU全体の規制化を提唱する」との記述が入った。その後、2018年に試行的に、2019年と2020年には本格的にNAPモニタリング(企業調査)が実施された。
この調査結果を受け、連邦政府はデューディリジェンスについての企業の自主的対応は不十分と判断した。連立協定に基づき、2021年2月に経済協力・開発省(BMZ)と労働・社会省(BMAS)が共同でデューディリジェンス法案を作成して広く意見を募集した。若干の修正を行った法案(1.17MB)は3月3日に閣議決定され(2021年3月10日付ビジネス短信参照)、2023年1月1日施行を目指す(注)。現在は連邦議会(下院)で審議が行われている。
議会での法案審議
連邦議会でのデューディリジェンス法案審議は4月22日に開始、5月17日には議会内で公聴会が開かれた。公聴会では、経済界から法案に対して主に2点が指摘された。1点目は、権利を侵害されたとする被害者がドイツ国内のNGOまたは労働組合に訴訟追行の権限を付与できる(被害者本人に代わって訴訟提起できる)との規定についてだ。2点目は、法案には対象企業が法違反を犯した場合の民事訴訟責任は条文上規定されていないが、法解釈により民事責任が発生するリスクが想定される点だ。学識経験者からは、民事責任を明確にする規定がない点は法的不安定をもたらすと指摘された。野党の批判も受け、5月20日の最終討議は中止された。
その後、連立与党内で合意が固まったため、審議を再開して一部修正の上、6月に連邦議会で可決見込みと報じられている(5月27日付「ハンデルス・ブラット」紙など)。
デューディリジェンス法案の概要
議会で審議中の法案の本体は全24条で、関係する国際条約の一覧が付属している。概要は以下のとおりだ。
- 対象となる企業(第1条)
ドイツを本拠とし、従業員が一定数以上の企業。ドイツ国内で事業活動を行うだけではなく、国内で経営の意思決定を行うことも含み、外国籍企業も対象になる。2023年1月の施行時には従業員3,000人以上、2024年1月からは1,000人以上の企業。従業員数には株式法上の関連会社の従業員数も含む。 - 人権の定義〔第2条(1)〕
この法律での人権は、付属書の一覧に記載している、強制労働や児童労働を禁止するILO中核的労働基準の8条約などと、国際人権規約(社会権規約、自由権規約)から生じる人権をいう。 - 人権上のリスクの定義〔第2条(2)〕
前述2.の国際条約に含まれる法的地位を保護するための禁止事項のうち1つへの違反が、実際の状況に基づき、十分な蓋然(がいぜん)性を持って差し迫っている状態のこと。禁止事項とは、児童労働、強制労働、労働安全衛生義務の不履行、団結権の侵害、差別、労働条件(労働時間、休憩・休暇、賃金など)の保護違反、土地の権利侵害などとされている。 - 環境に関する義務とリスクの定義〔第2条(3)(4)〕
環境に関する義務とは、付属書の一覧に記載の、水銀に関する水俣条約と残留性有機汚染物質に関するストックホルム条約から生じる義務をいう。環境に関するリスクとは、この3条約に含まれる義務への違反が実際の状況に基づき、十分な蓋然性を持って差し迫っている状況のこと。 - サプライチェーンの範囲〔第2条(5)〕
調達(直接的なサプライヤーだけでなく、間接的なサプライヤーや下請け業者なども含む)、生産、流通(輸送、保管、小売店またはオンラインプラットフォームなど製品が最終ユーザーに提供されるまでの活動)を含むもの。 - 企業の注意義務の内容〔第3条(1)〕
対象企業は、サプライチェーンの全体について人権と環境に対する注意義務を負うことになり、具体的には次の9つの事項の実施を義務付けられる。表:企業の注意義務の内容 No 実施事項 主な内容 1 リスク管理体制の確立 社内での適切かつ効果的なリスク管理体制を確立する。 2 社内の責任者の明確化 社内での人権に関する責任者の明確化など。 3 定期的なリスク分析の実施 年1回、自社と直接的なサプライヤーのリスクの洗い出し、リスクの優先順位付けを実施。直接的なサプライヤーを回避する迂回(うかい)的な取引が間接的なサプライヤーと行われた場合には、間接的なサプライヤーを直接的なサプライヤーとみなす。 4 方針書の決定 人権に関する方針書を決定する。 5 予防措置の定着 リスク分析により企業がリスクを確認した場合には、自己の事業範囲または直接的なサプライヤーに対する、適切な予防措置を講じる。 6 是正措置 3.の人権リスクや4.の環境関連の義務への違反が自己の事業範囲内または直接的なサプライヤーにおいて既に発生していること、または差し迫っていることを企業が確認した場合には、違反やリスクの阻止などのための是正措置を講じる。 7 苦情処理手続きの確立 企業内に苦情処理の仕組みを確立する必要。 8 間接的なサプライヤーへの対応 間接的なサプライヤーの経済活動による人権や環境のリスクも苦情処理の対象になる。 9 文書化と人権報告書の作成 注意義務の履行に関する文書の作成と保管。人権報告書の毎事業年度の作成。報告書は当該企業のウェブサイト上に全てのユーザーが利用できるかたちで掲載、所管官庁(後掲9.)に提出。 出所:デューディリジェンス法案からジェトロ作成
- 過料(第24条)
この法律に故意または過失により違反した場合には、最大80万ユーロの過料、ただし、平均年間売上高4億ユーロ以上の企業は、最大で平均年間売上高の2%の過料が科される。 - 公共調達からの排除(第22条)
前述7.の過料が科せられた場合には、当該企業は最長3年間、公共調達に参加できない。 - 所管官庁(第19条)とその業務(第20条、第24条)
連邦経済輸出管理局(BAFA)が所管官庁となり、対象企業からの人権報告書を審査し、必要に応じて是正勧告や過料の徴収などを行う。 - 施行日(第4章)
2023年1月1日を施行日と定めている。
この法律が成立した場合、日本企業に対する影響としてはまず、ドイツ国内の日本企業で1.に該当する規模の企業は注意義務を課せられ、6.で挙げた9つの事項を実施する必要が生じる点がある。1.に該当する規模でない場合、またはドイツ国内に事業所を持たない日本企業であっても、1.に該当する在ドイツ企業との直接または間接的な取引があれば、当該在ドイツ企業から人権や環境に関するリスク管理を求められることになる。当該在ドイツ企業が、日本企業のリスク管理などの不備が原因で法に違反することになり、7.の過料や8.の公共調達から排除された場合には、当該在ドイツ企業が日本企業に求償請求する可能性も予測される。
ドイツ企業の自主的な取り組み事例
前述のように、NAPモニタリングでは、ドイツ企業の人権デューディリジェンスへの自主的な実施は不十分だったことが明らかになった一方、既に自主的に実施している企業も存在する。BMASと国連グローバル・コンパクト・ネットワーク・ジャーマニーのウェブサイトで紹介されている企業の自主的な取り組み事例の中から、主なものを紹介する。
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BMWグループ(自動車)
BMWグループは国連の「指導原則」とNAPが求めている人権に関する注意義務をグループ全体で尊重している。
調達プロセスでサプライヤーネットワークに適用する「持続可能性基準」(環境・社会基準を定義)を定めており、取引候補先に対して「持続可能性基準」を照会するプロセスを実施している。BMWグループのサプライヤー契約書には、国連グローバルコンパクトとILOの基準への準拠義務の条項を含めている。2018年に「持続可能性基準」の準拠が確認できずに委託できなかったサプライヤーは193に上る。
また、特に人権リスクの高い部品や材料を特定するために「リスクフィルター」を設定している。これにより、BMWの国内外のサプライチェーンネットワーク内での人権リスクを明らかにしている。加えて、2022年までに、紛争鉱物(採掘、輸送、取引が紛争の資金源や人権侵害につながる原材料)の調達の完全な透明化を目指している。 -
ダイムラー(自動車)
グループ内の取り組みについては、まず、政治、学識経験者、市民のステークホルダーと同社とのワークショップである「サステナビリティーダイアログ」を定期開催している。ここでは、環境やサプライチェーンなどのトピックについて話し合っている。ダイムラーの国外拠点に直接出向き、現地調査の実施による問題発見にも取り組んでいる。その結果、例えば、女性活用や聴覚障害のある従業員のインクルージョンなどを改善できた。
サプライチェーンに対する取り組みでは、専門プロジェクトチームを設置している。チームはコンプライアンスと人権の専門家、品質管理エンジニア、購買部門による構成で、サプライチェーンのうち人権リスクが潜在的に高いところを特定し、透明性をもたせる活動を実施している。次のステップは、下請け業者や鉱山などのサプライヤーが「ダイムラーグループ持続可能性基準」に準拠しているかの確認になる。 -
ディベラ(繊維)
ホテル、飲食店、医療施設向けの業務用テキスタイルを製造するメーカーだ。原料は主にインドやパキスタン、中国から調達している。サプライチェーンは長く複雑だが、透明性と長期的な関係性、全従業員の生活水準について注意を払っている。
インドに拠点を設け、現地の小規模農家団体と共同で、社会・環境に配慮した生産を実現する取り組みを実施している。製造基準や労働条件基準、生産工程の幅広い行動規範を策定し、パートナー企業やサプライヤーに順守を義務付けた。サプライヤー側は生産現場での安全な作業と環境保護を確保し、基準を順守することで、同社から固定の販売数量と安定した価格が保証される。
また、サプライヤーの包括的なCSRリスク評価を実施するためにオンラインツールを活用し、同社独自の持続可能性マネージメントを行っている。 -
メルク(化学・医薬品)
インドから調達している雲母のサプライチェーンから児童労働を排除する対策を実施している。
メルクの「人権ミッションステートメント」をサプライヤーにも適用している。また、取引先採掘場の雲母供給過程を追跡するシステムを導入し、メルクのパートナー採掘場からのみ仕入れられるよう管理している。さらに、環境保護や安全、労働基準の順守を監視する監査システムを開発し発展させている。これは、現地社員によるサプライヤーのチェック、第三者機関やインド・ドイツ環境プログラム(IGEP)によるパートナー企業の定期的な監査を行うシステムだ。
これらに加えて、雲母採掘場のある地域一帯の生活水準改善のため、IGEPと協働して教育・医療改善プログラムを開発し発展させている。このプログラムでは、現地の学校や自治体への資金提供や医療施設の援助などを行っている。
- 注:
- この法案の通称は、閣議決定時点では、Lieferkettengesetz(Lieferketteはサプライチェーンの意)と報道されることが多かったが、現在は主にSorgfaltspflichtengesetz(Sorgfaltspflihtは注意義務の意)が使用されるようになっているため、「デューディリジェンス法」で統一した。
- 変更履歴
- 文章中に誤りがありましたので、次のように訂正いたしました。(2021年11月9日)
- 4.環境に関する義務とリスクの定義〔第2条(3)(4)〕
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(誤)環境に関するリスクとは、この2条約に含まれる義務への違反
(正)環境に関するリスクとは、この3条約に含まれる義務への違反 - 7.過料(第24条)
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(誤)この法律に故意または過失により違反した場合には、最大80万ユーロ、年間平均売上高4億ユーロ以上の企業は年間平均売上高の2%の過料が科される。
(正)この法律に故意または過失により違反した場合には、最大80万ユーロの過料、ただし、平均年間売上高4億ユーロ以上の企業は、最大で平均年間売上高の2%の過料が科される。
「サプライチェーンと人権」に関する主要国の政策と執行状況
- カリフォルニア州サプライチェーン透明法の概要と執行状況(米国)
- 英国現代奴隷法の最新動向と企業の対応
- 国内法で人権侵害行為に対する制裁を規定、対策の開示義務も(イタリア)
- 人権関連の法制化が進む一方で、順守体制に課題も(フランス)
- 域内統一ルールを志向し、多様な手法で人権侵害抑止を狙う(EU)
- ドイツで審議進む人権デューディリジェンス法案の概要と動向
- 児童労働規制が先行、より広範な人権デューディリジェンス法案の審議へ(オランダ)
- 法制化の動きは限定的(スペイン)
- 人権侵害に対する施策が日系企業にも影響(米国)
- 年間収益1億豪ドル超の企業に報告を義務化(オーストラリア)
- 米欧と協調した対中措置と、「現代奴隷法」制定の動き(カナダ)
- 執筆者紹介
- ジェトロ・ベルリン事務所